ラーマの日記 Hatena

南野陽子さん、将棋を中心に書いていきます。

ノートパソコン「lenobo G50」のボタン電池を交換

 

「G50」の時計が度々遅れて合わなくなるので、「これはボタン電池が切れたな・・」と思い、分解して交換しました。

※注意!:同じ試みをされる方は、くれぐれも自己責任でお願いします。

 

裏面の3つのネジを外して、カバーを下にスライドさせます。あとは裏面のネジは殆んど外して、キーボードを外します。

丸で囲んだネジを5つ外し(もう1本、どこかのネジを外したかも・・)四角で囲んだフラットケーブルを外します。白いロックを持ち上げて外せば引っ張り出せます。下方の太いフラットケーブルの下には、ハードディスクの接続端子があります。ハードディスクはマザーボード基盤を左に引っ張れば外せます。赤い四角のコネクターは、ケーブルを少しづつ引っ張って外します。

 

キーボードの裏面です。
 

基盤を裏返すと小さなボタン電池あります。電池の上面がマイナス極で、裏面がプラスです。基盤上に「+」と書いてあります。

左のCR2016はCR2032と同じ幅なのですが、G50に付いていた小さなボタン電池は3Vの「FDK ML1220」というものでした。ラジオペンチで、電池の上面と下面の、電池に接触する金属パーツを無理矢理 引き剝がしました。テスターで調べたら、電池容量はゼロになってました。

 

電池接続用の金属パーツの足を3ミリほど残して切断し、よく家電製品のコンセントケーブルなどを折り畳んで巻く時に使われる針金入りの紐を用い、ボタン電池を4GBメモリの下の空きスロットに移動して、テープで貼り付けました。

 

 

 
電線は長いほど電力ロスになり、電池のモち(保ち)も短くなるので、もう少し短くすれば良かったかも・・・。白と黒の電線の先にハンダを付ける時は、線先の金属を3秒ほど温めてからハンダを付けるとうまくいきます。ボタン電池はCR2032を用いましたが、多分CR2016でもイケたと思います。

ボタン電池は温め過ぎると爆発するそうなので、ボタン電池が冷たいうちにハンダ付けする時は苦労しました。ハンダ付けに失敗する度に、もう一度冷却してからやり直すんです・・。

ハンダから黄色いフラックスが出てきて、なかなかハンダが乗らないんですよ・・・。電池も爆発しないかとヒヤヒヤしながらやってたんですが、固まったフラックスを取り除くべく、紙ヤスリで電池の上面と下面を磨いたら、ハンダ付けできました。



参考資料
Lenovo G50のメモリ、ストレージ換装・増設手順
https://blog.kabocy.com/repair-custom/8797/

Lenovo G50-70 80DY LED点灯も電源が入らない

南野さんとの出会いを回想する

 

以前、「pastel_touch」という方がツイッターに投稿した画像です。
「週刊テレビガイド 1986年3月15日~3月21日号 定価180円」
 
南野さんが18歳の時ですね。
 
ウチは当時、読売新聞を取っていたんですが、祖母宅に配達される関係で、両親は「テレビガイド」を毎週買ってました。
 
私がこの雑誌で紹介されていた「楽園のDoor」で南野さんに気付いたのは「スケバン刑事Ⅱ」の映画版が放映された頃ですから、1986年の終わり頃~1987年初頭だったはずです。
 
ということは、「楽園のDoor」で知る以前から私は南野さんを知っていたことになります・・・。
 
面食いの私がこれほどの美人を見逃すはずはないのですが、実際には見逃したので、当時の私は何か、ほかのことに集中していたのだと思います。
 
スケバン刑事Ⅱ」自体も、1度もテレビで観なかったので、「スケバン」というタイトルだけで判断して、「不良が観る番組」と断定していた可能性が高いです。
 
「風のストレンジャー」さんなどはデビュー曲の頃から南野さんを録画していたので、もう「スケバン刑事Ⅱ」などは第一話から録画していたでしょうね・・・。
 
1986年にはウチに東芝のVHSビデオデッキがありましたから、「もっと早く南野さんの魅力に気付いていればなぁ~~~・・・」という後悔はいつもあります。
 
この年は「時にはいっしょに」も放送されるんですが、「スケバン刑事Ⅱ」と「新幹線'97恋物語」も木曜日の放送なんですよ・・・・・・。
 
私が木曜日生まれなことと一致しているようで、なんだか不思議な感覚になるのでした。
 
 
画像の出典:
pastel_touch(@Pastel_Touch)さん Twitter
 
参考資料:
スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説 ウィキペディア
「時にはいっしょに」ウィキペディア
「新幹線'97恋物語」ウィキペディア

「時にはいっしょに」のワンシーンから

 

 

第一話で、津村君に誘われて高杉さんがバイトしているカフェバーに行った季代ちゃん。

 

津村君と塾で話していた時は「(受験生なのに)そんなことしてる暇、あるわけないでしょ!」と 一度は断わったのに、ちゃんとオシャレしてカフェバーに出掛けるあたりは、年頃の女の子だなと思いますね・・。

 

女子高生の身分では洋服を一着買うのも一苦労でしょうが、この時の服はおそらく、アパートに引っ越す際にお母さんから譲り受けた服を着て出掛けたのだと思います。

 

このドラマがなかなかDVD化されない理由は多分、このカフェバーでかかっていた洋楽のBGMに原因があるのかもしれません・・・。権利関係がまだ緩やかな1986年当時であっても、ビデオ化する際の商品化の段階では新たな権利が発生して困難に陥ったとか・・・。

 

今回投稿した画像はそのカフェバーを出る際に、階段の下から津村君を見上げる季代ちゃんなんですが、何度見ても「美しい・・」と思いますね・・・。

 

この時の南野さんはまだ19歳に成り立てですが、御父上の英雄さんが兵庫から東京のマンションまで何度も出向いた理由が分かりますよ・・・。

 

「心配で心配で堪らない」という気持ちは、察するに余りあります。

 

御自身も妻の久美子さんとは職場結婚だったということは、我が娘もドラマの撮影現場や「ザ・ベストテン」で同席した男性アイドルとは恋に落ちかねない・・・・・・。そりゃ心配だよな、と納得できたんです。

 

「時にはいっしょに」を観ていると、「南野さんの記憶力ってすごいな・・」と思うことがよくあります。

 

「カット割り」が幾つもあるシーンなら、覚えるセリフも少量づつで済むでしょうが、このドラマはワンシーンが連続してノーカットのまま繋がっていくことが多いために、数ページにも及ぶセリフを丸暗記せねばならないことが常態化していたと思うんです・・・。

 

歌の歌詞もそうですが、そのことに即対応できたことでも、南野さんにとって歌とお芝居は天職だったのだろうな、と思えるのです。

 

 

画像の出典: 29 Mina - YouTube 

南野陽子デビュー前の南野家を想像

 

 南野さんはスカウトされた当初は戸惑いがあったようなんですが、日が経つごとに「デビューしたい」という思いが強くなって、覚悟を決めるに至ったようです。 

 

 
当初は御両親の猛反対にあったそうですが、それは南野さんの確信と、お二人の考えが食い違ったことが原因だったのだと思います。

当時の南野家の様子を想像すると、南野さんの強い確信の理由がボンヤリと見えてきたんですよ。


陽子:「ねえお父さん・・・、あたし、この前大阪にテレビ収録の見学に行った時にね、ある芸能プロダクションの方にスカウトされたんやけど・・・」

英夫:「?・・・」

陽子:「それでいろいろ考えたんだけど、あたしも来年は3年だし、自分の進路を決めなきゃいけないでしょ? だからね、この前までは美大に行こうと決めてたんだけど、やっぱりね、あたしね、アイドルになりたいの・・・」

英夫:「ハハハハ・・・・・最近はそうやって若い娘に夢を持たせて上京させて、低賃金で働かせて使い捨てる業者がいるそうだから、陽子が会ったその人もきっとそうだぞ。そんな夢みたいな妄想をする暇があったら、さっき陽子が言った美大受験に向けて勉強しなさい。お父さんはアイドルになるなんて許さないぞ・・」

陽子:「でも、その芸能事務所の代表の方はピンクレディーの曲を作ってた都倉俊一先生なんだよ?お父さんもピンクレディー知ってるでしょ?あのミイちゃんとケイちゃんをスターにした人が責任を持ってくれるんだよ?だから絶対に大丈夫だと思うの・・。だからね・・・ いいでしょ?ダメ?」

英夫:「・・・・・そりゃ まあな、お父さんも陽子は南野家の姫だと思ってはいるぞ。でもな陽子、芸能界にはそれこそ全国から選ばれた娘さんたちがやってきてしのぎを削ってるんだ・・・。伊丹では通用しても、全国レベルでは通用せんだろう・・。お前より可愛い娘さんなんて星の数ほど居るんだ。悪いことは言わないから、考え直しなさい。お父さんはお前には大学に行ってイイ会社に就職して、真人間として生きてほしいんだ・・・。夢みたいな話しはもうよしなさい。」

陽子:「・・・じゃあね、お父さんとお母さんはなんであたしにピアノやバレエを習わせたの?宝塚歌劇団とか、芸能の道に進んでも大丈夫なようにっていうことじゃないの?」

英夫:「ハハハハ、ばかだな・・・あれは、女の子が生まれたら習わせようと決めてたんだよ。日本国憲法の一文に『すべて国民は、健康で文化的な、最低限度の生活を営む権利を有する』とあるだろ?そんな庶民の小さな夢の一つとして、お前がほかの家の娘さんと我が家の教育レベルを比べた時に、悲しまなくて済むように、最低限の嗜みとして、習わせたまでだよ。そんな、芸能人にしようなんて御大層な願いなんてまったくない。自分の娘に、してあげたいことをした・・・それだけさ」


久美子:「ねえ陽子、お母さんはね、陽子が生きたいように生きるのが1番いいと思ってるわよ・・。でもね、陽子はまだ若いから、知らないことが沢山あるでしょ?世の中のことがまだ分からないのに、お父さんが許可を与えると思う?お父さんもお母さんも陽子が心配だから、怖い目に遭ってほしくないから、反対するの。もっとよく考えてからでいいんじゃない?それからでも遅くないでしょ?」

陽子:「お母さんもお父さんと一緒ね・・・。もういいわ・・・あたしの人生はあたしが決める!」

英夫:「そんな、芸能人になれるヤツなんざ何十万人に一人だ!うまくいくわけあるか!」

陽子:「もういい!お父さんには頼まない!」


席を立ち、2階の自分の部屋に向かう陽子・・・。


久美子:「お父さん・・・」

英夫:「ほっとけ!」


こんな感じだったと思うんですよ・・・。


この後、都倉さんは南野家にお伺いして英夫さんと久美子さんに頭を下げ、「陽子さんの面倒は私が見ますのでご安心ください」みたいに言って、なんとかOKを取り付けたのだと思いますが、それでも英夫さんは心配で、東京のマンションに度々行っていたようです。


南野さんは一見、「可愛い」とか、「綺麗」などの外見に着目されがちですが、責任感が強かったり、優しいところがあったりなど、深い部分を持つ人なので、「できれば結婚してほしい」と思っていた男子は、結構多かったのではないかと思います。



参考資料

ファミリーヒストリー 南野陽子~先祖の姓はナンノ!笑顔と根性の原点~
南野陽子 - NHKプラス https://plus.nhk.jp/

日本国憲法第二十五条
https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000003xfq-img/2r98520000003z9o.pdf

都倉俊一 - Wikipedia

東芝ビデオ総合カタログ 1986年4月

 

1986年、ウチにあったビデオデッキは「東芝 VHSビデオデッキ ビュースター A-55HP」というモデルでした。コレを用いて南野陽子さんの映像を録画し続けなかったことは、「一生の不覚」と思っています。

ノーマルVHSであっても、画質はすごく良かったんですよ・・・。だからこそ後悔が深いんですけど・・・。

「人生をドブに捨ててたな・・」と思ってますから・・・。

それで数日前にヤフオクで「A-55HP」を探していた時に、当時のカタログを300円で見つけて歓喜し、今日ウチに届いたんです。

早速、全ページをスキャンしました。

 

 

 

この頃の日本は好景気のインフレ時代で、企業は銀行からお金を借りて投資し、売り上げで回収、税金を応能負担して国家に貢献、というのが自然に出来てました。

でも1995年に大蔵省が「財政危機」など無いのに「財政危機宣言」をしてしまい、それが1997年の消費税5%増税に繋がってしまいました。

その後も財務省は議員たちを騙し続けて現在の消費税10%にまで到達。挙句の果てには、消費税は預かり税ではないのに、「納めていないヤツがいる、益税だ」とレッテル貼りして「インボイス」を導入しようとしています。

高性能な工業製品を生み出す力があるのに、その力を発揮できずに潰されてきたのは、財務省の貨幣観の誤りを、メディアが報道ぜずに是正できなかったことも関係していると思います。

安倍元首相のように、財務省と正面から戦った首相が現れない限り、日本の衰退は続くでしょう。